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歴史とは有り難いものです。忘れられている日本の歴史をもう一度考えてみましょう。

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古墳時代  313年~592年

古墳時代って?? 

3世紀の終わりごろ、近畿から瀬戸内海にかけて古墳が多く
作られるようになりました。なのでこの頃を「古墳時代」と呼びます。

古墳は、各地の支配者が自分の力を示すために作ったものです。
有名なのは、仁徳天皇陵。大阪府堺市にある全長486メートルの
日本最大の前方後円墳。ちなみに大きな古墳ランキングは

1位 仁徳天皇の古墳(486メートル)
2位 応神天皇の古墳(420メートル)
3位 履中天皇の古墳(365メートル)

 
四世紀ごろ 大和朝廷ができる


四世紀が始まった頃「大和」という地域が日本の中心となります。今の奈良県あたりです。大和朝廷成立は邪馬台国があったからだとか色んな説がありますが信憑性にかけています。

古墳が集中してるのが、奈良・大阪で「畿内(きない)」と呼ばれるように。畿内では、早くから豪族が連合して「大王(おおきみ)・天皇のこと」を中心とする国家を作っていました。これを畿内政権といいます。

5世紀終わりには、畿内政権は関東から九州北部までを支配する統一国家となりました。各地の豪族達は、血のつながりの深い人たちによって「氏(うじ)」という集団を作るように。

蘇我氏・大伴氏など。

歴史用語で「氏姓(しせい)制度」と言います。今の日本も「地元同じじゃん!」とわかっただけで、それまで別にどーでもよかった奴が急に親近感が出てきたりしますよね?

この頃はそーいった思いがめちゃくちゃ強い時代同じ「氏」の絆はとっても深いのです。

さてさて有力な氏は、土地を持ち働く人たちを支配するように。それぞれの氏は、大王(天皇)から身分によって「姓(かばね)」という呼び名が与えられました。

蘇我氏は「臣(おみ)」 大伴氏は「連(むらじ)」などです。「蘇我氏(そがし)」や「葛城氏(かつらぎし)」というのは地名からとりました


「中臣氏(なかとみし)」や「大伴氏(おおともし)」は、役割からとりました。そして畿内政権の仕事は、氏ごとで親から子へ受け継がれました。

大切な仕事は有力な氏へ。この頃、大伴氏は「軍事」中臣氏は「国の祭り」など、氏ごとに仕事が違いました。畿内政権は日本の統一を果たすべく頑張りだしたのです。


日本書紀と古事記

後世の創作が多い感じのする日本書紀と古事記。日本書紀は公式の記録作りを目指した物語風の歴史書で、古事記は歴史物語の形をとっています。

古事記は3巻からできていて、どうやら作者は神々の話が大好きだったらしく、神様系のお話がとても多いです。

古事記を作るよう命じたのは天武天皇。記憶力がいいと評判の稗田阿礼(ひえだのあれい)に命じて作成しましたが、存命中には出来上がりませんでした。

日本書記は30巻もあり、さまざまな記事が書いてあります。日本書紀を作るよう命じたのも天武天皇ですが、こちらも存命中は出来上がりませんでした。


 
神様の血筋!?天皇誕生

 
日本における初めての天皇は神武(じんむ)天皇と言われています。生まれは紀元前711年1月1日。どうやら神様と人間との接点に立つ人らしいです。「日本書紀」によると、天照(アマテラス)の孫が天から地上におりました(天孫降臨)そしてその孫が人間と結婚し、子供を産む。その子供が、また人間と結婚して、

神武天皇のお父さんである鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を産みました。ということは、神武天皇のパパは人間とカミサマのクォーター?!とまぁ、こんな感じで「天皇」は神の子としての存在が強調されているわけです。


 初代天皇 東征伝承 神武天皇

神武天皇は、紀元前711年の人なので、ホントはもうちょっと前に書かなきゃいけないんだけど、戦後は存在そのものが???となってきたのでとりあえずここらへんに・・・。神武天皇は、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と、海神(わたつみ)の子である玉依姫(たまよりひめ)の四男として誕生しました。神武天皇が45歳になった時、3人の兄とともに、父に呼ばれました。父は「東の方に神様が降りた。そこはとてもいい土地だそうだ。そこに都を作りたいと思う」と言いました。そして神武天皇は3人の兄とともに、東征に向かいました。

神武東征伝説のスタートです。一行の乗った船が明石に到着すると、亀の背中に乗った羽のある老人が、片手に釣竿を持ちながらやってきました。神武が「そなたは誰か?」と聞くと「私は国神である」と老人は答えたらしい。ふーん・・・。お次に神武一行は、奈良盆地へ入りました。そこで長髄彦(ながすねびこ)に攻撃を受けます。

すると金色の鳶が神武の元へやってきて、長髄彦らは目がくらみ負けてしまったのでした。ちなみに3人の兄は死んでしまいました。そして勝利した神武天皇は、大和の国を平定して、畝傍山(うねび)の東南にある橿原(かしはら)の地で初代天皇となったのでした。2月11日の「建国記念日」は、日本書紀に出てくる神武天皇が即位した日を太陽暦に直したものであります。
とまぁ、伝説だらけですが、神武天皇のモデルは継体天皇であるとか、10代目の崇神天皇だというかいう説もあります。ちなみに死んだのは127歳・・・。

 

欠史八代(けっしはちだい)


2代目から9代目までの天皇は「欠史八代(けっしはちだい)」と言われてます。初代神武天皇も胡散臭いですが、2代目から9代目もあまり統治期間が長い!そりゃ絶対死んでるだろ?というような内容なので、信憑性に欠けています。実際、実在するのは10代目からの祟神天皇からと言われています。でも日本書紀には、ちゃんと天皇の名前や奥さんの名前が書いてあります。
とりあえず2代目以降も紹介します。


 2代目 綏靖(すいぜい)天皇

 
神武天皇の子です。どうやら綏靖(すいぜい)が48歳のときに、神武天皇が死んでしまい、皇位継承バトルがスタート!どーしても天皇になりたい綏靖は、神武天皇の何人かいた奥さんの1人である五十鈴媛命(いすずひめのみこと)を無理やり自分の妃に!

つまり義母を奥さんにしたわけです。そして2代天皇の座をゲット!ゲットした翌年に、五十鈴媛命の妹である五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)をもゲット!そして84歳で死にました。

 
3代天皇 安寧(あんねい)天皇
 
綏靖(すいぜい)天皇と五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)の間に出来た息子。綏靖が死んだ後、天皇になりました。57歳で死去。
 

4代天皇 懿徳(いとく)天皇
 
安寧天皇の息子。死んだのは77歳とも45歳とも言われています。子供が春日氏などの祖先となります。
 

5代天皇 考昭(こうしょう)天皇

懿徳天皇の息子。死んだのは93歳とか113歳とか言われています。統治していたのは83年と、めちゃくちゃ長いんですが、何をしてたのか一切残されていない天皇です。

 
6代天皇 考安(こうあん)天皇
 
考昭天皇の息子。こちらも超長生き!123歳とか137歳とか。欠史八代はオバケ軍団です(笑)

 
7代天皇 考霊(こうれい)天皇
 
考安天皇の息子。吉備氏の祖先とも言われています。128歳で死去

 
8代天皇 孝元(こうげん)天皇
 
考霊天皇の息子。考元(こうげん)天皇からは武内宿禰(たけしのうちのすくね)が出て、蘇我氏・葛城氏などの祖先と言われています。大和朝廷でハバをきかすようになった有力豪族は、この頃の天皇から分かれています。106歳頃死去

 
9代天皇 開化(かいか)天皇
 
孝元天皇の息子。奥さんは孝元天皇の妃の1人だった女性を貰っちゃいました。この奥さんが「実在するであろう最初の天皇」である10代目の祟神(すじん)天皇を産んだと言われています。

以上、2代目から9代目までの「欠史八代」でした。
 


10代天皇 祟神(すじん)天皇
 
実在するとされている最初の天皇です。開化天皇の息子です。祟神天皇が即位してからすぐに、病気が大流行!民の半分以上が死んでしまうというピンチが訪れました。そこで登場したのが祟神天皇の叔母である百襲媛命(ももそひめのみこと)この百襲媛命が卑弥呼?という説もあります。

実在する初の天皇と言われていますが、こちらも死んだのは168歳とか120歳(笑)

 
11代天皇 垂仁(すいにん)天皇
 
生まれつき、すごくかっこよかったらしく、パパ祟神天皇の超お気に入り。いっつも祟神天皇の側にいて可愛がられていたそうです。奥さんは狭穂姫(さほひめ)が、狭穂姫の兄である狭穂彦(さほひこ)と垂仁天皇はめちゃくちゃ仲が悪かった。

とうとう狭穂彦は垂仁暗殺を企みます。が、狭穂姫は垂仁にこの計画をチクリ、狭穂彦は殺されてしまいました。狭穂姫は、罪の意識から自殺してしまったそうです。


また垂仁天皇は「生き埋め」を止めさせた天皇とも言われています。母親が死んだとき、今までの慣例に従って側近達を生き埋めにしたところ、側近達はなかなか死にませんでした。生き埋めにされた側近はずっと泣き続け、とうとう死んでしまいました。

それを動物達が食べているのを見て「今まで尽くしてくれた側近達を、こんなふうに死なせるのは可哀相だ」と言ったそうです。ここまでの天皇は全て「紀元前」の天皇です。 


71年 12代景行天皇 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の父

垂仁天皇の息子です。兄もいましたが、垂仁天皇が「何が欲しい?」と聞いたとき、兄は「弓」と答え、景行は「天皇の座」と答えた事から、天皇の座をゲットしたと言われています。景行天皇には多くの子供がいました。どうやら10人以上の奥さんがいて、80人以上の子供がいたそうです。

その中に大碓(オオウス)と小碓(オウス)という双子の兄弟がいました。ある日、景行は小碓に「お前の兄が朝夕の食事に顔を見せない。お前から食事の時は顔を見せるよう言っておけ」と命じました。

それから5日たっても大碓が顔を見せないので、景行は「まだ兄に話していないのか」と聞きました。すると小碓が、「いえ、兄がトイレにやってくる時に捕まえ、散々打ち据え手足を抜き取って体を丸めて捨てました」といったのです。

これを聞いた景行は、自分の息子ながらなんて乱暴な奴だと恐れたのでした。この小碓がのちの日本武尊(ヤマトタケルノミコト)です。神話で有名なヤマトタケルのデビューは兄殺しでした。


ヤマトタケル 蝦夷討伐へ行かされる
 
凶暴なわが子が恐ろしくなった景行は、朝廷に背いてばかりいる熊襲(くまそ・南九州にいた人々)を倒しに行くよう小碓に命令しました。小碓は女装をして熊襲の宴会に紛れ込み、熊襲のボスを刺し殺したのでした。その時ボスが「私は今まで自分が一番強いと思っていましたがあなたが日本一だ。これからは日本で最も強い男として日本武(ヤマトタケル)と名乗ってください」と言ったのです。

ちなみに↑のセリフを言った時、背中の皮をはがれ、お尻の穴から剣を突き刺されながら言ったらしい。すごいよ・・・以後、小碓は「日本武尊」と名乗ることに。そして熊襲を破り、意気揚々としていたヤマトタケルですが、景行は次々とヤマトタケルに命令を下します。それから「父は私のことが嫌いなのだろうか」と悩むことになるのでした。


ヤマトタケルは東の蝦夷を制圧に行く途中に、伊勢神宮に立ち寄りました。この時に「征夷大将軍」に任命されたそうです。そこで叔母の倭姫(やまとひめ)から草薙の剣(くさなぎのつるぎ)をもらったそうです。


ヤマトタケル 白鳥伝説

その後ヤマトタケルは、あるお姫様と恋仲になり、楽しい日々を過ごしていました。そんな中、伊吹山の悪い神様をやっつけて欲しいと依頼が。タケルは「そんな神など素手でやっつけたる」と草薙の剣を姫のもとに置いて出かけちゃったのです。が、草薙の剣は霊剣なので、霊験を手放したとたんにタケルは威力がなくなってしまったのでした。


そして殺されそうになり、体がぼろぼろに。最後に自分の国「大和」を一目みたいと歩き続けました。そしてこの山さえ越えれば・・・という所で、力尽きて死んでしまうのです。するとタケルの体は巨大な(16メートル!)の白鳥となり、大和の方へ飛んでいったのでした。


131年 13代天皇 成務(せいむ)天皇
 
景行天皇の80人の子供の中の1人。家来の武内宿禰とともに政治を行ったそうです。

武内宿禰(たけうちすくね)

武内宿禰とは12代目の景行天皇から16代目仁徳天皇の5代に渡って天皇に仕えた忠臣とされています。ちなみに300歳前後まで生きていたらしい。オバケです。そして沢山の有力豪族を残すのでした。


192年 14代天皇 仲哀(ちゅうあい)天皇
 
成務天皇には子供がいなかったため、ヤマトタケルの息子が14代天皇になったと言われています。奥さんは「神功(じんぐう)皇后」です。
 神功皇后(じんぐうこうごう)仲哀天皇は、いつまでたっても朝廷に従わない九州の熊襲をやっつけにいくことに!

すると奥さんの神功皇后に神様のお告げが!それは「九州のやせ細った土地なんかに行ってもしょーがない。それより、西に宝の国がある」というものでした。仲哀天皇は西を見ましたが「西に国なんてない!バカなこと言うな」と、そのお告げを無視。

その後、すぐに病気で死んでしまったのです。残された神功皇后は、「神のお告げを信じないからだわ!」と、武内宿禰(たけうちすくね)と相談し、西にある国「新羅(しらぎ)」を攻撃することに。すると!海の魚たちが神功皇后らの乗った船を新羅まで運び、その波は新羅の国を半分くらい飲み込む勢い!

こうして新羅は屈服し、毎年朝廷に貢物をすることに。さらにすごいことが!神功皇后は新羅攻撃中にちょうど臨月。なんと産気づきました。が、それを押しとどめ、攻撃終了後、九州に戻ってきてから赤ちゃんを産んだそうです。

スゴイですネ・・・

270年 15代 応神(おうじん)天皇

スーパーマザー神功皇后から生まれた息子です。応神天皇の時代に、百済から馬を貰ったそうです。馬が日本に来たことにより、交通手段がとっても便利になったそうです。

313年 16代 仁徳天皇 カマドの煙事件
 
応神天皇の息子。戦前の小学校の教科書に必ず書いてある天皇サマサマのエピソード「カマドの煙」で有名な天皇です。ある時仁徳天皇は高いトコに上って村を見ました。すると家々は静まりかえり、煙がひとつもあがっていません。「あれは民が貧しくて飯が炊けないのだ・・・」と思った仁徳天皇は、3年間税金を免じることを決めました。民は大喜び♪

しばらくして仁徳天皇はまた高いトコに上りました。すると家々から煙がもくもくあがっていた。天皇は「これで民の暮らしはだいぶ楽になった」と、安心して新しい宮殿を造ることに。民は喜んで仁徳天皇の宮殿造りをお手伝いしました。

とまぁ「日本書紀」にはこう書いてあるわけです。日本書紀ってのは天皇国家バンザーイって感じの本だから、すべて鵜呑みにはできないけどね。


仁徳天皇の奥さん 磐之媛(いわのひめ)
 
仁徳天皇は313年から399年まで在位し、83歳で死んだらしい。当時は一夫多妻の時代だったため、位の高い人が何人もの奥さんを持つことは当然とされていました。ですが仁徳天皇の奥さんである磐之媛はめちゃくちゃ嫉妬深い人でした。他の女性が夫の仁徳に近づいただけで烈火のごとく怒ったのです。

仁徳にはお気に入りの黒日売(くろひめ)という美女がいました。が、磐之媛のあまりの怖さに故郷へ逃げ帰ってしまいました。お気に入りの黒日売がいなくなってがっかりの仁徳。それでも頑張ってお次は八田皇女というお相手をゲット。

磐之媛がお出かけした最中に手を出しちゃったのでした。それを知った磐之媛は激怒して皇居に戻らなくなりました。慌てた仁徳は使者を出して何度も帰るように促したけど、とうとう磐之媛は戻らず、そのままそこで死んでしまったそうです。


400年 17代 履中天皇(りちゅう) 日本最初の身内争い 

仁徳天皇の死後、日本最初の「身内争い」が勃発しました。長男の履中は、一応次の天皇と言われていましたが、まだ即位していませんでした。履中には黒媛(くろひめ)という大好きな女性がいて、天皇になったらボクの奥さんに♪と考えていました。そして弟の住吉仲皇子(すみのえのなかつおうじ)を黒媛の元に使者として送りました。

ところが住吉仲皇子は「オレが次の天皇になる皇子だぜ」と偽り、黒媛と関係を持ってしまったのです。これが履中にバレてしまい、兄弟げんかが始まったのです。住吉仲皇子は先手を取って、阿曇氏(あずみし)の力を借りて履中を攻撃。

履中が慌てて逃げた時、住吉仲皇子の次の弟である端歯別皇子(みずはわけのみこ)が、履中の加勢にやってきたのです。履中は端歯別のことが信用できず「本当にオレの味方なら住吉仲を殺して来い」と命令。端歯別は住吉仲の側近を買収し、暗殺に成功したのです。

こうして履中は無事17代天皇に。履中は端歯別に感謝しまくり、即位後まもなく自分の子供達を差し置いて、端歯別を後継ぎに決めたのです。そしてこれが、これから果てしなく続く「身内争い」のスタートとなるのです。


406年 18代反正(はんぜい)天皇 

履中天皇が在位6年で死に、18代天皇に端歯別が即位し反正(はんぜい)天皇に。ですが反正も3年で死んでしまいました。2人の父である仁徳天皇が長生きだったので、この2人は老年になってから即位したから。ちなみにこの人、歯がすごくきれいだったらしい。また、初めて兄弟間で天皇が受け継がれました。


412年 19代 允恭(いんぎょう)天皇 

反正の子供がまだ小さかったので、、履中・反正の弟がクローズアップされてきました、だけど彼は足が悪かったので「天皇にはなれない」と断ってきました。ですが奥さんや家臣が「即位しろしろ!」とプッシュしまくったので、仕方なく天皇に。

足が悪いため不安かと思われましたが、比較的長く安定した治世を送っていました。が、この允恭天皇の子供達は、様々な愛憎劇を繰り広げることとなるのです。タブーを犯した長男 次の天皇は誰だ!? 允恭天皇と妻の間には5人の男子が生まれました。が、長男の木梨軽皇子が、同母妹の軽大娘皇女と関係を持ってしまうのです。

この2人は美男・美女で超有名でした。当時、異母兄妹の結婚はOKでしたが、同じ父と母を持つ兄妹の結婚はタブーとされていました。この時は「長男を罰するわけにはいかない」ということで、軽大娘皇女だけが伊予に流されてしまったのです。

その後、允恭天皇が死に、本来なら長男である木梨軽が天皇になるはずなんだけど、人々はかつて同母妹と関係を持った近親相姦皇子を嫌いました。そして三男の穴穂(あなほ)皇子の人気が高まってきたのです。木梨軽は穴穂を討とうとしましたが、穴穂が先に挙兵しました。

木梨軽は物部氏(もののべし)に助けを求めましたが、物部氏はすでに穴穂についていたのです。物部氏の家で木梨軽は自殺をし、穴穂は安康天皇となるのです。


453年 女がらみで天皇暗殺!20代安康(あんこう)天皇 

兄を倒し安康天皇となった穴穂皇子。が、彼はどうやらあまりかっこよくなかったらしい。だから美男だった兄にコンプレックスを持っていて、攻撃したといわれています。そんな安康が事件を起こしました。

安康の弟である稚武皇子(わたたけのみこ・のちの雄略(ゆうりゃく)天皇)は、めちゃくちゃ乱暴者。お嫁さんになってくれる人がおらず、安康天皇は「じゃあオレが弟のために!」と、お嫁さん探し。

異母弟である大草香皇子の妹を雄略のお嫁さんにすることに。が、大草香皇子の奥さんを好きになっちゃったのです。そしてなんと安康は大草香を殺害し、奥さんを自分の妻にしてしまいました。人妻を力ずくで奪ってしまったのです。

大草香とその奥さんの間には、5歳になったた息子・眉輪王(まゆわのみこ)がいました。安康はその息子を引き取って育てることに。その後安康が妻に「お前は今幸せか?」と訪ねました。妻は「満足してます」と答えましたが、安康が「ワシは一つだけ心配事があるのじゃ。お前の子の眉輪王が大きくなってワシが父を殺したことを知れば謀反を企むのではないか・・・・と」

この時、たまたま眉輪王は床下で遊んでいて(この頃は高床式なので)この話を聞いてしまったのです。そして眉輪王は、義父・安康が寝ている間に太刀で首を斬って逃げ去ってしまったのでした。ちなみに眉輪王はこの時、7・8歳。スゴイ・・・。


456年 21代雄略天皇 またの名を大悪天皇 

兄である安康天皇が暗殺されたと聞いて、安康天皇の弟稚武皇子(わかたけのみこ)は敵討ちをしようと思い立ちました。そして「誰かが眉輪王をそそのかしたに違いない」と、考えたのです。稚武はまず最初に安康のすぐ上の兄境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)の元へ駆けつけました。

天皇暗殺を聞いた境黒彦はただ驚くばかり。その態度を怪しいと思った稚武。「大王(天皇)が殺されたというのに何もしない不忠義。さらに実の弟が殺されたのに黙っている不義理。愚か者め!」と境黒彦を切り殺したのです。

次に稚武が向かったのは八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)この皇子も境黒彦と同じような態度だったため、八釣白彦に殴る蹴るの暴行を加え、生き埋めにしてやろう!と腰の当たりまで穴を掘ったところ八釣白彦はショックのあまり死んでしまったそうです。

そして稚武は葛城氏を頼り、眉輪王を殺害!さらに安康天皇の後継ぎである市辺押磐皇子(いちべのおしわのみこ)を狩に誘い出し、殺害したのです。こうして4人の競争相手を全て殺し、雄略天皇となったのです。

身内をことごとく殺しまくった雄略天皇は、気性の荒い人物でした。「オレ様の言うことに間違いない。ワシは世界一のエライのだ!!」といった感じの人。ちょっとしたことで人を殺しまくりました。そのため人々は「大悪天皇」と呼ぶように、

また雄略は豪族には心を許すことはありませんでした。そのため、有力豪族でありながら政治に関わることのできない豪族から不満がたまりまくっていったのです。雄略天皇の時代は、かなり強引な政治を行ったため、天皇家はとてもお金持ちになりました。


雄略天皇 人妻に手を出す 

雄略天皇の時代、吉備田狭(きびのたさ)という豪族がいました。その奥さんの稚媛がめちゃくちゃ美人で、吉備は「わしの妻ほど美しい女はいない」と自慢していました。その噂を聞いた雄略天皇は、一目見たいと吉備田狭・稚媛夫妻を呼び寄せました。実際会って見ると本当に美人で、雄略はヒトメボレしちゃったのです。

そして稚媛を自分のものにしたくなっちゃいました。そして田狭に「新羅に不穏な動きがあるので、百済とともに攻めにまいれ」と命令しちゃうのです。田狭は大将として新羅攻めに。そしてその隙に稚媛を口説き落としてゲットしたのです。

新羅で妻を寝取られたことを知った田狭は激怒!「だからオレを新羅に行かせたのか!それならこっちだって!」と新羅と手を結び、反乱を起こしたのです。雄略は「これはやばい・・・」とビックリ。自分のスケベ心がこんな事態を招いてしまったのです。

そして雄略は蘇我韓子(そがのからこ)大伴談(おおとものかたり)紀小弓(きのおゆみ)の3人を田狭攻撃に行かせましたがボロ負け。やばいーー!と思っている内に、なんと肝心の雄略が死んでしまい、この戦いは終わりました。


480年 22代 清寧(せいねい)天皇
 
戦いの途中で死んでしまった雄略に変わって後を継いだのが、息子の清寧(せいねい)天皇です。清寧は生まれつき白髪でした。しかも虚弱体質。性格もかなり変わっていたそうです。結婚しないで子供もいなかったため、雄略天皇の血筋はここで終わりました。


23代 顯宗(けんぞう)天皇

清寧天皇に子供がいなかったため、「次の天皇はどうする!?」と、みんな考えまくり。そこに出てきたのが雄略天皇に殺された皇子の息子でした。憶計(おけ)と弘計(おけ)という兄弟なのですが、父が雄略天皇に殺された時に、身分を偽り播磨(はりま)に逃げ、そこで暮らしていたのです。

その噂を聞いた清寧天皇は、使者を出しました。兄弟2人は下男として働いており、その家の主は2人の正体を聞いてビックリしたそうです。兄の憶計皇子は、最初なぜ使者がやってきたのかわからず、「もしかして身分を明かすと殺されてしまうのではないか?それに天皇の血筋だと言ったら嘘つき呼ばわりされ殺されてしまうかも・・・」と、悩みました。が、弟の弘計皇子が「俺たちは履中天皇の孫だぜ!このまま牛や馬の世話を続けるより、本当のことを言って殺された方がいい!」と、決死の覚悟で本当のことを言ったのです。

すると、すぐさま朝廷からお迎えがやってきました。「後継ぎがいないので、君たちを皇族として迎える」というものだったのです。清寧天皇は兄の憶計皇子を「皇太子」に任命しました。が、いざ天皇に即位というときに、憶計皇子は「ボクが今、こうやって朝廷にいられるのは、弟が名乗を上げてくれたから。だから弟を天皇にしてくれ」と言ってきました。

弟の弘計は「何言ってんだよ兄ちゃん!こういうのは兄ちゃんがなった方がいいんだって!」と、お互い譲りまくり。なかなか皇位が決まらず、結局は弟の弘計皇子が天皇となりました。これが顯宗(けんぞう)天皇です。顯宗(けんぞう)天皇は、今まで下男として働いていたので、民の気持ちがわかる天皇でした。そのためマジメな政治を行ったのです。


24代 仁賢(にんけん)天皇

↑に出てきた兄の憶計皇子です。弟の顯宗(けんぞう)天皇が死んでしまったため、兄が仁賢(にんけん)天皇となりました。天皇になってから11年ほどで死んだそうです。


25代 武烈(ぶれつ)天皇
 
仁賢天皇の息子です。この人、古代史では超有名人です。有名な理由は「狂気」・・・すごいです。日本書紀では「一つも良いことをやってない。国の皆が怖がっていた」と、あります。妊婦のおなかを裂くのが趣味だとか、人の爪をはいで、その手で土を掘らせるとか・・・。人を殺しては喜んだという異常な性格

とにかく!暴虐ぶりはすごいです。が、古事記にはそのような内容は一切書いてありません。どうやら日本書紀では意図的に「武烈天皇」を残虐に書いたようです。それはなぜか?というと、中国の言い伝えで「皇統の血は、悪王の出現によって断絶する」というものがあります。

そうです。武烈天皇には子供がおらず、ここでとうとう皇統の血が絶えることとなったのです。そのため、武烈天皇は「皇統を絶えさせた悪王」ということになってしまったのです。


507年 26代 継体(けいたい)天皇
 
武烈天皇は子供がいなかったため、次の天皇を誰にするかで朝廷は困ってしまいました。なんせ武烈天皇は、自分の一族を殺しまくったと言われており、朝廷は後継者不在に頭を抱えていたのです。そこでクローズアップされたのが、越前にいた男大迹(おおど)でした。

応神(おうじん)天皇の五世と言われており、武烈天皇とはものすごく遠縁ですが、一応皇族(だったらしい)ちなみにこの時すでに57歳。継体天皇は実は天皇家とは何の血縁関係も持たない、地方豪族だったとも言われています。

皇族ではない人が天皇になったため、新王朝の創始者とも言われているのです。継体天皇は、即位となってからすぐに仁賢(にんけん)天皇の娘と結婚しました。これによって「王位継承」の正当性を身につけたとも言われています。


527年 古代史最大の戦いか? 磐井(いわい)の乱 

この頃日本は新羅と長年に渡り戦っていました。戦いに行かされるのは、主に北九州の豪族でした。当然「中央(大和)にいるやつらは命令ばかりしやがって!」と、不満を抱えていたのです。そんな中、大和朝廷の将軍である近江毛野(おうみのけの)が、大軍を率いり新羅へ。

すると新羅は、かねてから大和へ不満を抱いていた北九州の豪族「筑紫君磐井(つくしのきみいわい)」へ賄賂を贈り、近江毛野が新羅にくるのを妨害してくれとお願いしたのです。「磐井が裏切った!」というニュースは、大和朝廷へそして物部氏(もののべし)率いる朝廷軍が、磐井征討へ向かったのです。

激戦の末、磐井は討ち取られ一年半続いた「磐井の乱」は鎮圧されたのでした。この乱によって、北九州は大和朝廷にさらに厳しく取り締まられることとなり、結果的に大和政権を強力にしていったのです。


27代 安閑(あんかん)天皇 

継体天皇死後の27代天皇になった息子の安閑(あんかん)天皇は、皇太子時代から積極的にお父さんのお手伝いをしていました。が、継体天皇死後の3代の天皇はちょっと謎。本当に皇位を継いだのかどうかもわかっていません。


28代 宣化(せんか)天皇 

安閑天皇の実の弟。この人も本当に天皇になったのかどうかは謎


29代 欽明(きんめい)天皇 

27代・28代天皇の弟。上の2人の母は地方の豪族出身でしたが、欽明天皇の母親は皇族出身。「毛並み」の良さが売りでした。この人の代から、やっとこさおもしろい時代に突入していきます。というのも、欽明天皇は大連(おおむらじ)に大伴金村(おおとものかねむら)と、物部尾輿(もののべのおこし)を抜擢。

そして大臣(おおおみ)に蘇我稲目(そがのいなめ)を抜擢するのです。奥さんは5人いましたが、その中に蘇我稲目の娘である小姉君(おあねのきみ・聖徳太子の母となる女性を出産)と堅塩媛(きたしひめ・推古天皇を出産)がいます。 


渡来人って?? 

この頃、中国や朝鮮半島では戦争が相次いでいたので、日本へ渡ってくる人が増えました。この人たちのことを「渡来人(とらいじん)」と呼びます。これら「渡来人」は、優れた文化や技術を持っていました。中央政権はそれを取り入れたので、他の地方豪族より大きな勢力を持つことに。

漢字もこの頃、渡来人により伝えられました。「仏教」「儒教」も渡来人によって伝えらます。ちなみに、この時代台等してくる蘇我氏は、渡来人説があり。というのも、蘇我氏一族には「高麗(こま)」という名前の人がいて、高句麗から来たんではないか?との話。

代表的な渡来人は、秦氏(はたし)と漢氏(あやし)秦氏は京都太秦(うすまさ)を中心に一大勢力を築いていきました。


552年 蘇我稲目(そがのいなめ) 仏教を崇める

この頃、渡来人の力を借りて勢力を伸ばしてきたのが「蘇我稲目(そがのいなめ)」財政の仕事をしていて、娘を天皇の妃にしたりと朝廷内で力を伸ばし始めました。552年(538年説もあり)、百済(くだら)より仏教が伝わりました。

欽明(きんめい)天皇は悩んだ。「仏教を受けるべきかどうか!?」蘇我氏は「仏教を日本に広めよう!」と、大賛成。が、当時の実力者でもあった物部氏と大伴氏は大反対。日本には「天皇」という神がいるのに、他の神をあがめる必要はない!ってこと。

この頃、蘇我氏はまだまだ新しい勢力で、物部氏や大伴氏のほうが断然権力をゲットしてました。とりあえず天皇は、「まぁ、ためしに拝んでみるか・・・」ということで、百済からもらった「釈迦如来像」を蘇我稲目に預けました。

稲目は、その像を自分の自宅に置いたのです。ちなみに、この自宅は日本で初めてのお寺になります。稲目は前々から渡来人と仲良しだったので、「朝廷が発展していくには、諸外国との交流が必要だろぉ?そのためには諸外国の人たちの話題になってる仏教ってやつを日本にも広めたほうがいいんじゃないの?」という先進的な考えの持ち主でした。が、その思いは朝廷には受け入れられず、逆に「生意気な奴め」と思われて言っちゃうのです。

 
570年 病気大流行 仏教を信じたせい? 

この年、日本に病気が大流行しました。物部尾興(もののべおこし)は、「蘇我稲目がへんな神を崇めたからだ!」と怒り、稲目の死後、家を焼き払ってしまったのです。稲目の息子、蘇我馬子(そがのうまこ)は物部氏を憎むコトになっていくのです。



572年 30代 敏達(びたつ)天皇 

欽明天皇が死んだので、息子が30代天皇に。奥さんは3人。そのうちの1人である炊屋姫(かしきやひめ・堅塩媛の娘)がのちの推古天皇となります。国政も代替わりし、大連には物部守屋(もののべもりや)、大臣には蘇我馬子(そがのうまこ)ちなみに、馬子の奥さんは守屋の妹なので、この2人は義兄弟なのです。が、2人とも父親の代から続く「仏教を崇拝するか?」の問題で、めちゃくちゃ仲が悪かったのでした。

584年 蘇我氏・物部氏 犬猿の仲に 

584年 またも百済から弥勒菩薩が届きました。
蘇我稲目の息子である馬子は、仏殿を立て拝めました。当時の天皇の敏達(びたつ)天皇も拝めることを許可しました。おもしろくないのは物部氏。で、物部氏がまたも怒り、再び蘇我氏VS物部氏が始まるのです。運の悪いことに、父・稲目の時と同じく、またも病気が大流行。物部守屋(もののべもりや)は、「馬子が仏殿を建てたから、日本の神が怒ったのだ!」と仏殿を焼き払ったのです。が、疫病は続き、敏達天皇は死去。

この天皇の後継者を誰にするか!?ということで、蘇我氏&物部氏の争いが始まることに。蘇我氏は渡来人と深い関係を持ち、朝廷の財政面を担当するいわば新しく入ってきた一族。対して物部氏は軍事・警察担当の大豪族である上に国神を祭る祭祀も担当していました。ちなみに国神の祭祀担当には中臣氏もいました。

物部氏・中臣氏は古来からの神を守る保守的な一族だったのです。なので途中からしゃしゃりでてきて、仏教を拝めようとする蘇我氏とは犬猿の仲になっていくのです。

585年 敏達天皇死す!血塗られた争いの始まり
新しい勢力である蘇我氏と、古来から天皇家に仕えている物部氏の間は日に日に険悪になっていきました。

そんな中、敏達天皇が死んでしまいました。そして両氏は皇位継承を巡ってバトルが始まるのです。敏達の葬式の時、蘇我馬子が刀をつけたままやってくると、物部守屋が「矢の突き刺さった雀のようだのぉ」とクスクス笑いました。

次に物部守屋が弔辞を読んだ時、緊張して守屋の手が震えるのを見た馬子は「鈴をつけたらチャラチャラといい音色が聞こえそうだのぉ」と皆の前で笑ったのです。まさにいつ戦いが始まってもおかしくない状況に!



585年 馬子のバックアップで31代 用明天皇 

さて敏達の後の天皇ですが、一番有力だったのは欽明天皇の息子、押坂彦人皇子でした。が!次の天皇になったのは蘇我稲目の娘である堅塩媛(きたしひめ)が産んだ大兄皇子だったのです。豪族の娘を母にもつ皇子が天皇になったのは初めてのこと。蘇我馬子が色々と手を回し、「押坂彦人皇子はまだ若いからダメじゃ」ということになったのです。

穴穂部皇子「オレだって天皇になりたいんだっつーの!」 ここで飛び出してきたのが、こちらもまた蘇我稲目の娘である小姉君(おあねのきみ)の息子 穴穂部皇子(あなほべ)でした。「じゃあオレだって天皇になる資格があるじゃねーか!」と言って来たのです。

馬子にしてみれば、堅塩媛も小姉君も自分の血統なので、どっちが天皇になっても良かったんだけど、穴穂部皇子とはイマイチ気が合わなかったのでした。蘇我氏の中でも「堅塩媛(きたしひめ)系」と、「小姉君(おあねのきみ)系」の派閥が出来ていました。が、敏達天皇の皇后には堅塩媛の娘である炊屋姫が。

そして今度の天皇も堅塩媛系だったので、小姉君系はちょっとムっとしてたのです。穴穂部皇子は怒って馬子のライバルである物部守屋を頼りました。そして穴穂部皇子は独断で、敏達天皇の妻である炊屋姫(かしきやひめ)に直訴しに行ったのです。

この時熱くなってちょっと乱暴を働いてしまいました。(どうやらレイプしようとしたという説あり)これを諌めたのが敏達天皇に可愛がられていた三輪君逆(みわのきみのさかし)穴穂部は逆ギレし、守屋と馬子に「逆は無礼だから殺せ!」と命じたのです。そして守屋は穴穂部を伴い逆を殺害したのです。

これが守屋のイメージダウンとなりました。炊屋姫を守る寵臣を殺したということで人望を失い孤立していくことに。馬子はニヤリとほくそえむのでした。 蘇我馬子 穴穂部皇子を暗殺! 

頭がよかった馬子は、物部守屋を孤立させようと奮闘しました。物部守屋は、軍事に優れていたので馬子は策略によって対抗することにしたのです。そんな中、用明天皇が病気になり再び朝廷内に緊張が走りました。守屋は蘇我氏に対応するためには、武力によって権力奪回するしかない!と戦いの準備をし始めました。このような緊迫した中で、用明天皇が死去。もちろん守屋は王位継承者に穴穂部皇子をプッシュしました。

兄弟相続なら問題ないし、筋からいけば穴穂部が次期天皇のはず。対する馬子は、「そっちがそうならこっちは!」と、穴穂部の弟である泊瀬部皇子(はつせべおうじ)をプッシュしました。穴穂部皇子は炊屋姫に乱暴したおかげで、炊屋姫に嫌われていました。そこに目をつけた馬子は、炊屋姫に取り入り、手を組むことに成功。そしてなんと穴穂部皇子を殺してしまったのです。

これには守屋もビックリ。守屋は擁する皇子もいなくなり、ますます孤立していったのです。


587年7月  蘇我馬子VS物部守屋 丁未の変 

とうとう587年 両家の戦いは勃発(丁未の変)馬子の根回しが効いたのか、守屋は味方が全然いませんでした。それでも守屋はかなり奮闘しましたが、とうとう矢にあたって戦死。古代豪族の名門 物部氏は滅亡したのです。この時、14歳だった厩戸皇子(うまやどのおうじ・後の聖徳太子)は馬子チームとして奮闘。

馬子が物部守屋を倒したことにより、以後仏教は広まるようになり、蘇我氏の権力はゆるぎないものになったのです。


32代 祟峻(すしゅん)天皇 

物部氏を倒した馬子は、泊瀬部皇子を崇峻(すしゅん)天皇にしました。崇峻は穴穂部皇子の弟で、蘇我稲目の娘 小姉君の息子なので、馬子からみれば甥にあたります。皇室NO1の実力者 炊屋姫も馬子にとっては姪にあたるため、炊屋姫とは常にコンビを組んでいました。

そのためこの2人はできてるんじゃないかという説もあります。そして馬子は崇峻を操り、権力を最大限活用しようと思っていました。が、崇峻天皇は馬子が思っていたほど大人しい男じゃなかったのです。崇峻天皇はだんだんと「オレ、操られるのもうイヤだ!」と、政治の表舞台に出たがりました。馬子はそんな崇峻天皇にだんだんうざったくなってきて、両者の仲は険悪になっていくのです。


592年 馬子 ヒットマンを送る

ある日、崇峻天皇に猪を献上した者がいました。崇峻天皇は猪を見て「いつになったらこの猪の首を斬るように、あいつの首を斬れるのだろうか」と言ったのです。そしてこの言葉はすぐさま馬子の耳に入り、怒った馬子は崇峻殺害を企むことに。とうとう東漢直駒(やまとのあやのあたえこま)という仲良しの渡来人に崇峻天皇を暗殺させたのでした。

当時天皇の遺体は3年間儀式を営んだ後、埋葬するというしきたりでした。が、馬子は証拠隠蔽のため、即日埋葬するという行動にでました。総仕上げは天皇を暗殺した東漢直駒を殺したのです。罪は「崇峻天皇の妻である河上娘を強奪しようとした」ということでした。

そしてこの天皇暗殺について異議を唱えるものは誰一人いなかった。それだけ蘇我氏の力は凄まじかったのです。さらに馬子は自分の娘の刀自古郎女(とじこのいらつめ)を、厩戸皇子と結婚させました。馬子の謀略は、ことごとく成功していったのです。

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